このHPは生活の発見会及び集談会の公式ホームページではありません。
あくまで私、真之介(しんのすけ)個人のホームページです。
生活の発見会・集談会に初めて出席する人は「森田を学べば症状が良くなる」と期待して来ます。それは同然ですね。
しかし「理論さえ学べば症状が良くなる」と思うのはあまりにも「人というもの、人生というもの」を勘違いしており、観念的過ぎると思うのです。
考えてもみて下さい。例えば水泳や自転車に乗ることを・・・・理論さえ学べば泳げるようになるのか、あるいは自転車に乗れるのか。「私はまだ水に入ったことはない。でも理論を学んだから充分に泳げるはずだ」とか「まだ実際に自転車に乗ったことは一度もないが、理論を学んだので乗れるはずだ」などと思うのと同じです。
これは水泳や自転車などのスポーツに限らず、仕事にしたってそうです。研修所で業務に関する理論を学んだところで、実務経験を積まなければ一人前にはなれません。医師や弁護士などの専門資格を取得した人でさえ、実際の経験を積まなければ役に立たないのではないでしょうか。ようするにペーパードライバーと同じなのです。だのになぜ、精神的なものに関してはそうではないと思ってしまいがちなのでしょうか。
認知行動療法では、「ならばまず、実際に体験する前に練習をしてみましょう」となるのかも知れませんね。理論だけ学ぶよりまだマシかも知れませんが「畳の上の水練」と言って、畳の上でクロールのフォームを練習したところで実地にプールで水に入らなければ本当には泳げないはずです。
では神経症の症状を治すための「実務経験」とは何なのでしょうか?それは言い替えるならば「人生経験」とも言えるのではないでしょうか。対人恐怖症などは人生経験を積んで年齢を重ねるに従い自然と良くなることが多いのはその為だと思います。
私は理論は不要だと言っているのではありません。理論的なものを全く学ばずして森田療法も何もあったものではない。森田療法にもいろんな流派が枝分かれしているようですが、少なくとも生活の発見会では、理論学習は大切だと考えています。
なぜ理論学習が必要なのか。それは神経症になるタイプの人は「人というもの、人生というもの」を勘違いしている場合が多いからだと私は思っています。その勘違いを、森田を学ぶことによって正していく必要があるからです。森田療法の創始者である森田正馬先生は自分の生み出した療法を「人生の再教育」だと言っていました。
私は過去40年以上、生活の発見会(以下「発見会」と呼びます)とかかわって来ましたが、せっかく森田や発見会と出会ったのに「私はもう充分に森田を学んだ。森田の事は充分理解した。だのに症状が治らない」と言って発見会を去った人もいました。
その人にとって「充分学んで充分理解した」と思ったものとは、きっと上記のような「理論だけの森田」だったのだと思います。理論さえ学べば自転車に乗れると勘違いしている人の大いなる誤解です。
「私には森田は合わない。薬物療法が合う」と言って発見会を去った人もいました。そのうちの数人の、その後の人生を私は知っていますが、薬漬けにされて入退院を繰り返す、失礼ながら何とも哀れな人生だと私は思ったものでした。発見会に在籍していた当時はあんなに活き活きとして普通の人生を歩んでいた人なのに、なぜ?と残念で仕方ありません。
ではなぜ、「充分学んで充分理解した」はずの森田では神経症の症状が治らなかったのでしょうか?
それは、ひとつには自分の「人生に対する勘違い」を正す為に森田を学んだのではなくて、単に症状を治す為の手段として森田を学んだ為だと思えるのです。「人生に対する勘違い」を正さない限り実は神経症の症状はそう簡単には治らないのです。私自身の経験からもそう思います。
私も若い頃は症状を治す為の手段として森田を学んでいました。でも今は症状など問題にならなくなった現在、あらためて森田を学び治してみると、当時とは全く違った視点で森田を理解するようになりました。これから先もっと年老いた時に再び学び治せば、恐らくまた今とは違った視点に変わるのかも知れません。ですから「充分学んで充分理解した」などあまりにも不遜な意見だと思わざるを得ないのです。
ではなぜ、「私には森田は合わない。薬物療法が合う」と考えたのでしょうか?
それは、森田など症状を治すのに何年かかるか判らない。まどろっこしい。薬物療法の方が手っ取り早いと思ったからではないのでしょうか。でも、結果はどうだったのでしょうか。長い人生でみれば、一見遠回りのように見えた森田の方が正解だったのかも知れませんね。その人達のその後の人生を考えればそう思わざるを得ないのです。
いずれにしろ、森田療法とは神経症の症状を治す為だけの療法ではなく、その人の人としての生き方や人生を変える療法なのです。私はそう思っています。自分自身の生き方や考え方を変えることなく、付け焼刃的に森田を学んでも神経症の症状は治らないことの方が多いと思いますし、症状自体は治ったとしてもその後の人生で様々な生きづらさを抱えることになります。
まず自分はいかなる人間なのか自己洞察する。同じ体験をしたのに神経症にならない普通の人とは、感じ方やとらえ方、行動パターンがどう異なるのか。つまり自分自身の生き方や人生観を、森田をからめて深く自己洞察してみる。それをせず、それをするつもりも毛頭なくて、ただこれまで通りの自分の生き方に森田理論を上乗せするような感覚で森田を学んでも神経症の症状は治らないことの方が多いと思います。
もしそこまでせずに「森田学習をしたお陰で神経症の症状が治った」と信じている人がいるならば、きっとその人の神経症の症状は一過性のもので、環境を変えるなどして自然治癒しただけなのかも知れません。私はそのように考えます。
そこを勘違いしてしまっている発見会のベテラン会員の人も時々いるような気がしているのです。自然治癒の結果ではなく、森田理論学習のお陰であると固く信じているのです。勿論、その人個人としては何をどう信じようと構わないのですが、そのような人が理論学習一辺倒でその浅い考えを初心者に押し付けているのだとしたら問題ですね。
さて、私はこの文章の中でこれまで「人というもの、人生というものに対する勘違い」という表現をたびたび使っています。神経症の症状に陥る人には、様々な勘違いがあります。それをこのブログにおいてこれから解説していきたい、そう思っています。(2026年7月6日記)